年末のミステリランキングを総なめにした一冊を読みました。櫻田智也さんの『失われた貌』です。
タイトルのとおり、「貌(かお)」が失われるところから物語が始まります。顔を奪われるというのは、その人がその人であった証拠を奪われるということ。事件の入り口からして強烈で、読む前から身構えてしまう作品でした。
この記事では犯人にも仕掛けにも結末にも触れずに、どんな話で、読んでどう感じたかを書きます。買うかどうか迷っている方の判断材料になればうれしいです。

『失われた貌』はどんな話?(ネタバレなし)
山奥で、男性の変死体が発見されるところから物語は始まります。顔は潰され、歯は抜かれ、手首から先は切り落とされている。つまり身元を特定する材料が、ことごとく奪われた状態です。
視点人物は、J県警媛上警察署で捜査係長を務める日野雪彦。独断専行のきらいがある人で、年下の巡査部長・入江との軽妙なやりとりが持ち味です。書評家の杉江松恋さんは、この会話劇に黒川博行の警察小説に通じるものがあると指摘しています。導入の陰惨さに対して、捜査パートは会話のテンポで読ませる作りになっています。
そして捜査が進むと、無関係に見えていた出来事が少しずつ絡み合い、現在と過去を巻き込みながら事件が膨らんでいきます。新潮社は本作の帯で「本物の『伏線回収』と『どんでん返し』をお見せしましょう!」と宣言しています。ここまで言い切る帯はなかなかありません。
著者・櫻田智也と「初の長編」という位置づけ
櫻田智也さんは、昆虫好きの青年・魞沢泉(えりさわ せん)が探偵役をつとめる短編ミステリのシリーズで知られてきた作家です。2021年には『蟬かえる』で第74回日本推理作家協会賞と第21回本格ミステリ大賞をW受賞しています。
その櫻田さんにとって、『失われた貌』は初めての長編です。短編で評価を確立した書き手が、長い尺で何をやるのかという意味でも注目された一冊でした。
実際に読むと、短編の作家が長編を書いた、という感じはしません。刑事たちが組織のなかで足を使って捜査を積み上げていく、真っ当な警察小説として進みます。そのうえで本格ミステリとしての仕掛けが用意されている、という二段構えです。
3冠+山中賞で「4冠」— どう評価されているか
本作の評価のされ方は、かなり分かりやすい形で数字に出ています。
- 「このミステリーがすごい!2026年版」国内編 1位
- 「週刊文春ミステリーベスト10 2025」国内部門 1位
- 「ミステリが読みたい!2026年版」国内篇 1位
- 第14回山中賞(TSUTAYA中万々店の書店員・山中由貴さんが「みんなに読んでほしい、最高に面白い」と思った作品を独断で選ぶ文学賞。芥川賞・直木賞の発表に合わせて半年に一度発表される)
- 2026年本屋大賞9位(164点)
年末ランキング3つで1位を取ったうえに、書店員個人が選ぶ賞も獲っている。プロの読み手にも、本を売る人にも刺さったということだと思います。伊坂幸太郎さん、恩田陸さん、米澤穂信さんが揃って絶賛したことも話題になりました。
こういう「評価が定まった話題作」は、期待値が上がりきった状態で読むことになるので、少し不利なところがあります。そのうえで、実際に読んでどうだったかを次に書きます。
警察小説として読むか、本格ミステリとして読むか
本作の評価を読んでいて何度も出てくるのが、「警察小説でありながら本格ミステリでもある」という言い方です。
刑事が組織のなかで動き、聞き込みを重ね、上とぶつかりながら手がかりを拾っていく。その運び方は、いわゆる実直な警察小説そのものです。一方で、そこに積まれた手がかりが最後に一つの形に収束する設計は、本格ミステリのやり方です。
どちらのジャンルが好きかで、この本の読みどころは変わります。警察小説が好きな人は、日野と入江のやりとりや、捜査が転がっていく過程そのものを楽しめます。本格ミステリが好きな人は、置かれているものが後でどう効くのかを疑いながら読むことになります。どちらの入り口から入っても外さないのが、この作品の強いところだと思いました。
逆に言うと、「警察小説の手触りはいらない、謎解きだけ濃く欲しい」というタイプの方には、捜査パートが少し長く感じられるかもしれません。
「どんでん返し」という言葉との付き合い方
この本を語るときに避けて通れないのが、帯の「本物の『伏線回収』と『どんでん返し』をお見せしましょう!」という宣言です。
強い言葉です。そして実際、終盤の収束はよくできています。ただ、この言葉から連想しがちな「足元がひっくり返る衝撃」とは、少し種類が違うと感じました。ひっくり返るというより、噛み合う。散らばっていたものが、あるべき場所にはまっていく感覚です。
ミステリを読み慣れている方ほど、「どんでん返し」という単語に過剰な期待を載せてしまいがちです。期待の向きを合わせておくと、この本はずっと良く読めます。
宣伝文句に引っぱられず、「丁寧に積み上げたものが最後に効く小説」として手に取るのが、いちばん幸せな読み方だと思います。
読んだ感想①: 終盤で一本につながる瞬間
いちばん良かったのは、終盤で、それまでバラバラだったものが一つにつながるところです。あの瞬間には、はっきり驚きがありました。散らばっていた出来事が「そういうことだったのか」と像を結ぶ、ミステリを読んでいてよかったと思える手触りがあります。
ただ、正直に書くと、予想のはるか上をいく、という種類の驚きではありませんでした。とんでもない飛び道具で殴られるタイプではなく、丁寧に積まれたものが最後にかちりと噛み合うタイプです。「人生で一番驚いた」を期待して読むと、少し落ち着いた読後感かもしれません。
このあたりは期待値の持ち方次第だと思います。「4冠なんだから、とんでもないどんでん返しがあるはずだ」と身構えるより、丁寧に積まれたものが噛み合う快感を味わいに行くほうが、この本とは相性がいいはずです。
読んだ感想②: 難易度は「ほどよい」
難易度はほどよいと感じました。手がかりが読者に伏せられすぎているわけでもなく、かといって簡単でもない。ちなみに私は見抜けませんでした。
本格ミステリというと、読者への挑戦状のように「さあ当ててみろ」と構えた作品もありますが、本作はそこまで突き放してきません。かといって、途中で先が読めてしまうほど親切でもない。自力で当てにいく読み方をする人にも、流れに身を任せる人にも、どちらにも向いているバランスだと思います。
登場人物が使い捨てにされず、いちど出てきた人が後々まで物語に関わってくるのも印象的でした。読み終えてから振り返ると、無駄に見えた場面がちゃんと効いている。この構造の気持ちよさが、ランキング1位の評価につながっているのだと思います。
読む前に知っておくといいこと
心構えを一つだけ挙げるなら、序盤から中盤は、情報が整理されないまま増えていくタイプの作りだということです。杉江松恋さんはこの読み心地を「設計図が失われたプラモデルを作らされているようなもの」と表現しています。
誰が何をしたのかを完璧に覚えながら読もうとすると、少ししんどいかもしれません。ただ、終盤できちんとつながるので、わからない部分は抱えたまま進んで大丈夫だと思います。むしろ、細部を追いかけるより「いま誰の話をしているか」だけ見失わないようにするほうが、最後の噛み合う感覚は大きくなるはずです。
もう一点。導入の描写は、死体の状態からして決して穏やかではありません。陰惨な描写が苦手な方は、最初の数ページで判断してから買うかどうか決めてもいいと思います。
こんな人におすすめ / 合わないかもしれない人
向いていると思う人
- 伏線が終盤で噛み合う快感を味わいたい人
- 刑事たちの会話劇で読ませる警察小説が好きな人
- 評価が定まった話題作を、まず1冊押さえておきたい人
- ミステリは好きだが、あまりに凝りすぎた作品は疲れるという人
合わないかもしれない人
- 「人生最大級のどんでん返し」を期待している人(そこは期待値を下げておくほうが楽しめます)
- 冒頭の遺体描写など、陰惨な入り口が苦手な人
- 短い時間で読み切れる軽さを求めている人(304ページ、集中して読む本です)
なお、この本と続けて読んだのが瀬尾まいこさんの『私たちの世代は』感想レビューです。片方は顔を奪われた死体、もう片方は奪われた日常。ジャンルはまるで違うのに、どちらも「失われたものをどう引き受けるか」の話で、読み比べるとおもしろい組み合わせでした。
同じ「仕掛けのある小説」という意味では、以前紹介した『探偵小石は恋しない』感想レビューも、小説という形式だから成立するトリックが楽しい一冊でした。読後に価値観を少し揺らしてくる本を探しているなら『イン・ザ・メガチャーチ』感想レビュー、もっと軽く読める一冊なら「殺し屋の営業術」もあわせてどうぞ。
よくある質問(購入前に気になるところ)
Q. どれくらいのボリューム? A. 四六判変型で304ページです。文字数としては極端に多くはありませんが、人物と出来事を追う集中力が要るので、細切れの時間より、まとまった時間で読むほうが向いています。
Q. シリーズものですか? 前作を読んでいないと駄目? A. 著者の代表作である魞沢泉シリーズとは別の作品で、本作が初の長編です。前提知識はいっさい不要で、この1冊から読み始めて問題ありません。
Q. 文庫版は出ていますか? A. 2025年8月の単行本刊行なので、この記事の時点では単行本での購入になります(文庫化の予定は公表されているものを確認できませんでした)。
Q. グロテスクな描写はどれくらい? A. 冒頭の遺体の状態がいちばん強い部分です。そこを越えれば、猟奇的な描写が続く作品ではありません。
まとめ|『失われた貌』の基本情報
- 著者: 櫻田智也(初の長編。2021年『蟬かえる』で日本推理作家協会賞・本格ミステリ大賞をW受賞)
- 出版社: 新潮社 / 2025年8月20日発売
- 四六判変型 304ページ / 1,980円(税込)
- 受賞: このミス2026年版 国内編1位、週刊文春ミステリーベスト10 2025 国内部門1位、ミステリが読みたい!2026年版 国内篇1位、第14回山中賞、2026年本屋大賞9位
驚きの種類としては派手ではありませんが、最後にかちりと噛み合う瞬間のために全部が置かれている、よくできた一冊でした。「今年のミステリを1冊だけ読む」なら、有力な候補だと思います。

